団地の思い出

ここでは物心がついた頃から中学校入学までを過ごした団地でのエピソードや印象に残っている出来事を記します。主に1986年から1997年ごろの話です。以下にジャンル分けしています。


・団地内での遊びについて

公園ごとや住んでいる棟ごとに幼稚園から小学校低学年ぐらいの子供のグループが自然とできていました。そのグループ単位で年齢性別の違う友達と遊んでいました。人数は5,6人のことが多かったように思います。いつもの公園で数人集まると、家に居る友達を呼びに行くことがありました。家に下にくると「○○君(ちゃん)あーそーぼ」と呼びかけます。公園や棟ごとに微妙な縄張りがあり、グループは同じ場所で遊ぶ傾向がありました。

 

1、パスカットという遊び

道路(団地内の車が1台通れる幅)を挟んで向う岸と靴を投げ合って(パスをして)オニに靴を捕られないようにする遊びです。オニは道路上のみを移動でき、他の参加者は向う岸を渡る際にオニに捕まるか靴をカットされたらオニの交代です。

 

2、たこ焼き屋さんという遊び

ストーリー性を追加した鬼ごっこです。公園の鉄棒の下をたこ焼き屋の店舗に見立てオニが店員をし、参加者の代表がたこ焼き100個、1000個など有り得ない注文をします。間合いを見計らって注文をキャンセルし、激怒した店員=オニが追いかけて出します。今から思うと注文をキャンセルした人以外を捕まる意味が分かりませんが、あえて理由を考えると共犯というところでしょうか。

 

3、ケードロという遊び

オニ複数人、逃げる人複数人のグループ鬼ごっこです。警察と泥棒グループの二手に分かれます。この遊びのときは雰囲気を出すためか、棟内の階段や建物の影に隠れるのが定番になっていました。警察、泥棒の決め方は参加者が片足を出して指で靴を直接指していきます。「いろはにほへとちり盗人(ぬすと)」で靴を指された人は泥棒続いて「いろわかよ探偵」の人は警察。この作業を繰り返します。

 

 

4、花火

夏の夜は親同伴で本物の花火をすることがありましたが、子供同士だと火は使えませんので草を裂いたり結んだりして花火と称して遊んでいました。女の子が好んで遊んでいました。

 

5、自転車レース

棟の周りの道路を気が済むまで自転車で走り回ります。ショートカットで草地を走ることもありましたが普通に道路を走る方が速かったです。

 

6、くつ飛ばし(くっとばし)

ブランコを立ちこぎで精一杯揺らして、くつを前に飛ばします。雨上がりだと水溜りができて、飛ばしたくつが泥だらけになることもよくありました。ブランコの板をぐるぐるとまわしてチェーンを短くして射出ポイントを上げて飛距離を伸ばす作戦がありましたが、板の上に乗りにくくなるため、踏み外して落ちる子もいました。

 

7、セミ取りとチューペット

夏限定で虫取り網と虫かごを持って油蝉、クマゼミを取れるだけとります。このときは普段の縄張りを意識することなく団地内のよくセミのいる木まで行ってセミを捕りました。普段よりも遠いところまで行くのでちょっとした冒険気分もあったと思います。疲れていつもの遊び場まで戻ってくるとチューペットを友達の家からもらったり、あげたりしていました。二つに折ったチューペットのどちらをとるかで結構取り合いになっていました。(封入側が量が多く見える)

とったセミは夕方までに逃がすことが暗黙の了解でした。セミは1週間した生きないことを子供ながらに意識していたように思います。セミの抜け殻集めもありましたがこちらはとにかく量を集めることがステータスでした。団地の壁にもよく抜け殻がありました。

 

8、秘密基地

低年齢のときはビーズやどんぐりの宝物をクッキー缶に入れて自転車置き場の裏に隠したりしていましたが、小学校の高学年になると市場のダンボール廃棄置き場からダンボールをピストン輸送で植え込みの間に運び込んで屋根を作り壁を作って2,3畳の空間を作って遊んでいました。ダンボールのままだと目だって近所の人が片付けてしまいますので、落ち葉をダンボールに止めてカモフラージュしていました。ちなみに秘密基地作りは何故か5月ごろが恒例でした。クラス替え直後で何か面白いことをやろうという雰囲気だったのかもしれません。

 

9、ビニールプール

幼稚園ぐらいの子供が何人かで遊んでいることが多かったです。棟の下には階段ごとに共有水道があり栓は市販品で開閉できましたのでプールの水を張っていました。今から思えば大らかな時代だったと思います。車の洗車に使用している人もいました。

 

 


団地の人々

大人になってから思うことは子供から老人まで色々な層の人が住んでいて個性的な人も多かったように思います。

 

1、洗車のおっちゃん

うちの駐車場の並びにトヨタ クレスタを毎週ぴかぴかに磨き上げているおっちゃんがいました。平日は埃が着かないようにカバーがかけられていましたのでほぼ洗車が趣味という感じでした。90年代の初めにクラウンに乗り換えてからもぴかぴかでしたがある時期からカバーが掛けられたままになりました。風のうわさに病気で入院したということを聞き、退院後はクラウンから軽の1BOXになり、しばらくするとその軽もなくなりどうやらおっちゃんは車を運転することはなくなった様子でした。その後のおっちゃんの消息は分かりません。

奥の駐車場左端のカバーがかかった車がクラウン

 

2、イギリスからの転校生

小学校2年生のときだったと思います。隣の25棟にイギリスからの転校生がやってきました。親の仕事でイギリスに住んでいたそうです。日本に数ヶ月滞在するとのことで、家が近かったために一緒に帰ったり近所の案内をしたりしました。天竺川沿いの酒屋の瓶置き場から酒瓶の蓋を取ってきてコマにして遊んだ記憶があります。その後彼とは連絡を取ることはなく、名前も忘れてしまいました。

 

3、仲の良かった友達

幼稚園から小学校1年生ぐらいまでよく遊んだ友達がいました。ファミコンはそこそこに主にグランドの公園で遊んでいました。ときには天竺川まで出かけて堤防から降りたり、野良犬に一緒に追いかけられたり小さいな冒険を楽しんでいました。

 小学校入学からしばらくすると宝塚方面へ引っ越してしまい、連絡をとる手段もなくほぼ忘れていました。ある日、近所の公園で友達と一緒にいると、引っ越したはずの友人が少し離れたところでこちらを見ているではありませんか。そちらのほうへ行くと友人は何も言わず走ってどこかへ行ってしまいました。今となっては、恥ずかしかったからなのか、会うと帰るのが嫌になるからなのか分かりません。その後その友人の消息は分からないままです。

 

4、酒屋の配達のおっちゃん、クリーニングの配達、灯油配達の音楽

・ライトトラックにお酒を積んで、前掛けと鉢巻をつけて配達をしている泉屋酒店のおっちゃんがいました。ディスカウント店が増えるに連れてこの光景は見なくなりました。

・マイカーが増えるにつれて、クリーニングの宅配は少なくなりましたが90年代初めごろは音楽を鳴らしながらワンボックスカーで宅配している「アヒルの洗濯屋」が存在しました。

 なんとyou tube で音源がUPされていました。 

・冬になると灯油の巡回販売がきます。短調の少し寂しげな曲を流してトラックが回っていました。

 

5、自由犬、わんたろう

団地とその周辺を縄張りにしている猫のように自由な犬がいました。毛長の雑種で餌はどこかで貰っているようでした。よく団地のエントランス前で寝そべっていました。本当に大人しい犬で子供がちょっかいを出してもそそくさとその場を離れて吠えることもありませんでした。ある日、他の野良犬が団地内に迷い込んだとき普段大人しいわんたろうが野良を追いかけて追い払っているところを見たことがあります。勇敢な一面もあったわんたろうですが子供には油断するらしく、ある日小学校に登校すると悪戯で藤棚の支柱にくくられていました。

 1995年ごろ広報豊中の地域紹介でわんたろうが東豊中団地で撮影された写真が載っていました。思った以上に行動範囲が広かったことに驚いた印象が残っています。わんたろうがいつ頃どんな経緯で団地に居ついたのかは分かりません。最後にみたのは1996年ごろだったと思います。機会があれば図書館でわんたろうの記事を発掘しようと思っています。

 


・団地の行事

1、運動会

1993年ごろまで団地内のグラウンドで毎年5月ごろに運動会が開催されていました。あまり覚えていないのですが徒競走や玉入れなどの競技があったと思います。自治会発行の暮らしのガイド(1990)には次のように記されています。”自治会が発足した1970年の11月3日に第一回の運動会が開かれました”

 

2、ラジオ体操

夏休みに団地内のグランドで行われていました。初回にビニール紐がついた首からかけるスタンプカードを貰って毎回スタンプを押してもらいます。スタンプの個数によってもらえる景品が違いました。景品の内容は毎年同じでお菓子と新聞社協賛の静座下敷きなどでした。自治会発行の暮らしのガイド(1990)には次のように記されています。”約400人余の子供たちが元気に参加し皆勤賞を目指してがんばっています”

 

3、夏祭り

毎年8月の終わりにグランドで夏祭りが行われます。翌朝の掃除は少年野球チームが担当しており、掃除していた友達によるとお金が落ちていることが多くある意味美味しい役目だったようです。

 


・団地とマンション、子供の立場からの印象

90年代になると田畑が残っていた東泉丘、西泉丘に相次いで新しいマンションが建ち始めました。小学校の集団下校は地域ごとに分かれて帰りますが、町名で集まるのではなく「スプリングヒルズ」、「桃山台F-1」など、マンション名で集まるようになったのには妙な違和感がありました。

 上の項に書いた団地内の運動会とは別に小学校校区内でも運動会が行われていました。新しくできたマンションのチームは住人の年齢が若く、活気がありました。特に大縄はマンションチームが練習を重ねて挑むのに対して旭ヶ丘チームはぶっつけ本番が常でした。

 古い団地の薄汚れた見た目と真新しいマンションの対比は何となく、団地=ダサいという風潮を生み出してしまいました。完成当時は時代の最先端だった団地も90年代の中ごろには住人も高齢化して活気がなくなっていました。阪神大震災では団地内での被害が全棟全く無かったのに対して少し古いマンション(昭和50年以前)では壁が剥がれたり階段がずれたり大きな被害が出ていました。見た目は古ぼけた団地でしたが地盤と建物の頑丈さに驚くと同時に団地の良さを見直すきっかけになりました。

 2000年にはほぼ取り壊された古い団地ですが、あと10年残っていれば昭和30年代の団地としてネット等で大きく取り上げれられたかもしれません。今は時代が一回りして団地の古さが逆にオシャレとして捉えられています。古い団地で過ごした日々ほど季節感やゆっくりとした時間の流れを感じえたことはありません。春の日差しと満開の桜、梅雨の合間にできた大きな水溜り、セミの大合唱の中通ったラジオ体操、公園の水銀灯が青白く点灯するのを見て帰った秋の日、冬の朝の霜柱とバケツに張った薄氷。など書き出すとキリがありません。

 立替により建物は新しくなりましたが、団地内の自然や緑の多さは継承されています。立替から10年以上が経過し緑の多さはかつての団地を凌ぐほどです。しかも、死角のできない明るい緑が多く、とても爽やかな空間が広がるようになりました。住人も若い人が増え活気も戻ってきているように感じます。これから先もより住みよい団地になっていって欲しいものです。

 

・団地の中で見たこと、感じたこと

1、退去済み区域の夜

あまり記憶が定かではありませんが1994年の11月頃だったと思います。近道のため、既に日も暮れて薄暗くなった第一期工事エリアを歩いたときの話です。当時小学生だったので、買い物へでも行く途中だったと思います。住棟の入り口はベニヤで封鎖された状態で、立替区域内は真っ暗でした。住棟は闇に包まれており、黒い巨大な壁に囲まれているようでした。ふと先の住棟を見ると、お風呂場の電球が点灯しているように見えましたが、近づくと明かりは見えず、目の錯覚だったようです。

 退去済みのエリアは想像以上に不気味で早く通り抜けようと公園の横を急ぎ足で歩いていると、後ろから足音が迫っているように感じました。さらに早足で歩いても足音はついてきます。公園を過ぎた辺りで走り出し、エリアを抜けました。今から思えば、足音は錯覚だったのかも知れませんが誰もいない真っ暗な団地の不気味さは今でも鮮明に覚えています。人々が生活していた頃の賑やかさを知っている分、余計に不気味さを感じたようです。

 

2、給水塔の中にはどうなっているのか?

団地に住んでいると365日毎日給水塔が目に入ってきました。友達と塔の中はどうなっているのか、住んでいる人はいるのかなど色々と思索したことを覚えています。ウルトラマンの家という珍説もありました。

 外から見えるハシゴや塔上部のフェンスが塔の上に上がる手段があることを示していました。しかし子供ながらに一般人は登れないことは分かっていましたので、行きたいけれど、行く事は叶わない特別な場所でした。見上げるたびにフェンスに囲われた塔の最上部には何があるのか不思議におもっていました。

  

給水塔概観           給水塔地上部

今でも分からないのは塔の内部です。クビレ部分のハシゴまでは内部を登っていく訳ですが、どのような階段があったのか気になります。また、水を揚げるパイプや内部の照明がどうなっていたのかも興味深いところです。

 右の図に示す地上部にはひな壇状の階段があり、階段を上がると大きな扉がありました。その構造物からV字に塔までコンクリの構造物が続いていました。おそらくは、扉の中には揚水ポンプ、V字のコンクリには水道管が通っていたのだと思います。時折ドアの向こうから機械音がしているのを聞いたことがあります。今はもう給水塔はありませんが、その謎に包まれた魅力は消えることがなさそうです。

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